前回、事業承継を考えていなかったために、ご家族が困ることになった出来事をご紹介しました。
今回は、自社株の評価額をめぐる、少し毛色の違う出来事をご紹介します。
あるIT関連企業の社長は、60代半ばでした。30年近く前に起業したものの、長い間、決して順風満帆ではありませんでした。大きな受注が途切れ、資金繰りが苦しくなるたびに、社長は自分の貯金を切り崩して会社にお金を入れ、何度も倒産の危機を乗り越えてきました。
社員への給料を優先し、ご自身や家族のための備えは、正直なところ後回しにせざるを得ない状況が長く続いていたそうです。
潮目が変わったのは、ここ数年のこと
状況が大きく変わったのは、ここ数年のことでした。時代の変化を受けて、自社で開発していたシステムが急に注目を集めるようになり、これまで苦戦していたのが嘘のように、発注が次々と舞い込むようになったのです。急激な業績回復により、長年抱えていた累積の損失も解消し、決算書の見た目は一変しました。
業績の急回復を見た取引銀行の担当者からは、「この勢いなら、上場も視野に入るのではないですか」と声をかけられるようになりました。
長年の苦労が、ようやく報われようとしている。社長は、これまで以上に力を入れて仕事に取り組むようになりました。
そして、無理を重ねた末に倒れ、そのまま亡くなります。
会社は守られたが、家族には何も残らなかった
会社が銀行から受けていた借入については、法人で加入していた生命保険によって返済され、経営そのものは守られました。この点では、最低限の備えが機能したと言えます。
問題は、ここからでした。
ここ数年の急激な業績回復と、累積損失の解消により、自社株の評価額も、それに比例して跳ね上がっていました。非上場株式の相続税評価額は、直近の利益水準や、会社に積み上がった純資産の水準に大きく左右される仕組みになっており、赤字から一気に黒字転換した会社ほど、評価額も短期間で跳ね上がりやすいという特徴があります。
さらに、長年苦しい時期に社長個人が会社に入れてきたお金は、帳簿上「貸付金」として積み上がったままでした。これも、相続税の計算上は資産として扱われます。
つまり、遺されたご家族(奥様)には、高く評価された自社株と、実際には現金化できない貸付金が、まとめて相続財産としてのしかかりました。長年、家計に余裕がなかったこともあり、家族のための保険は数百万円程度しか用意されておらず、とても相続税を払いきれる金額ではありませんでした。
買い取ってもらおうにも、会社にもお金がない
奥様は、会社に対して株式を買い取ってほしいと申し出ました。しかし、会社の側にも、余裕はありませんでした。急成長の最中で、採用やシステム改修への投資がかさみ、決算上は利益が出ていても、手元の運転資金にはゆとりがなかったのです。いわゆる「黒字なのに現金がない」状態で、株式を買い取るだけのまとまった現金は残っていませんでした。
大株主である家族には現金がなく、会社側にも買い取る体力がない。関係者の間で協議が重ねられた結果、最終的には、先ほどの法人保険で完済されたばかりの銀行が、あらためて融資に応じるという形で、会社が家族から株式を買い取り、事なきを得ました。
担当者の間では、「もし銀行の協力が得られなければ、経営権そのものが揺らぎかねなかった」と振り返られています。
「知っておくこと」が、最大の備え
この社長は、決して無防備だったわけではありません。会社を守るための法人保険には、きちんと加入していました。ただ、長年の苦労の末にようやく訪れた急成長が、自社株の評価額まで一気に押し上げてしまうということまでは、想定されていませんでした。
自社株の評価額は、決算書の内容(利益・純資産など)をもとに、一定の計算式で算出されます。ただ、多くの経営者は、自社の株価が今どれくらいの評価になっているのか、把握できていません。大まかな評価額の水準や、貸付金など相続の際にリスクとなりうるものを知っておくだけで、備え方は大きく変わります。特に、業績が上向いてきた会社ほど、一度立ち止まって確認する価値があります。
会社を守る保険と、家族を守る保険は、本来別のものとして考える必要があります。そして、その金額を決めるためには、まず自社の株価が「今、いくらなのか」を知ることが出発点になります。
誰に継がせるかは、まだ決めなくても大丈夫です。ただ、自社株の評価額がどれくらいか、今の状態を「見える化」しておくことはできます。
次回は、社員の立場から見た、同じテーマの別の出来事をご紹介します。
※実際にあった出来事を基に、特定できない形で再構成しています。
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